嫌われる勇気 - 岸見一郎・古賀史健

「嫌われる勇気」の解説と要約&あらすじ・内容の説明と感想レビュー

「嫌われる勇気」は2013年に初版発行され200万部の売上を突破し、ベストセラーとなった名著。2015年には舞台化、2017年にはTVドラマ化もされています。 「嫌われる勇気」が発売される以前まで、日本ではほとんど無名に近い存在でしたが「嫌われる勇気」の原案となったアドラー心理学の提唱者、 アルフレッド・アドラーは、フロイトやユングとならんで心理学の三大巨匠と評されています。

「嫌われる勇気」はアドラー心理学とは何か?を説明した本である。

「嫌われる勇気」という本のタイトルから、「どんどん嫌われていけ」「人から嫌われる事を恐れるな」といった内容が 本に書かれているとイメージするかも知れませんが、当然そんな浅い内容の本ではありません。

とてもインパクトがある名前の為、最初は「嫌われること」の方に注目してしまうかも知れませんが、どちらかというと「勇気」の方にフォーカスして下さい。 本の中でも「アドラー心理学とは、勇気の心理学なのだ」と説明されています。この事を頭の片隅に留めておきながら当記事を読み進めて頂くとより理解が深まるでしょう。

また、アドラー心理学は常識へのアンチテーゼという側面が含まれています。その為、我々が思い描いているような常識や、一般的な考え方からは到底及ばないであろう斬新なものの見方、 場合によっては非常識と感じられる発想を展開してきます。アドラー心理学はとても深く、難しく感じるかも知れません。

「嫌われる勇気」では、アドラー心理学の日本国内での第一人者である「岸見一郎」氏とライターの「古賀史健」氏がタッグを組み、 アドラー自身の思想や、アドラー心理学をなるべく分かりやすく理解できるように青年と老人の会話形式でストーリーが構成されています。

簡単なあらすじ

「人は変われる」「世界はシンプルである」そして「誰もが幸せになれる」という持論を唱えている哲学者の「老人」。 その老人が提唱している持論がどうしても腑に落ちない「青年」。

青年は自分の容姿や性格に自信がなく、出自や学歴にも劣等感があります。 さらには複雑な人間関係や仕事の悩み、家庭などの問題を抱え、差別、戦争、格差がまかり通るこの世界に嫌気が差していた。

「老人」が提唱している持論は青年からすると、どうしてもただの理想論にしか聞こえず、自分には到底受け入れられるものではなかった。 悩み多き青年は老人のもとを訪ね、その真意を問いただそうとしました。

ここから老人と青年の議論が始まり、今後、数日間にわたって夜な夜な二人の議論が展開される。その議論を通して「アドラー心理学」とは一体何なのか? 「誰もが幸せになれる」という根拠は何なのか?が徐々に紐解かれていく事になっていく・・・。

アドラー心理学とは

オーストラリアの精神科医、アルフレッド・アドラーが20世紀初頭に提唱した、まったく新しい心理学のこと。 何故まったく新しい心理学と評されているのか?その理由は、アドラー心理学とはギリシャ哲学の延長線上にある思想であり、学問であると分析されているからです。

「哲学」「思想」「学問」などの言葉が並んでると私と同じように、どうしても拒絶反応やアレルギーが出てしまう方もいると思いますがご安心下さい。 「嫌われる勇気」ではアドラー心理学をかなり噛み砕いて説明されており、誰でも理解できるように分かりやすく意訳された本です。 私たちが想像しているような一般的な心理学というよりは、どちらかというと考え方や思想・自己啓発に近いものという認識が出来ればそれでOKです。

第一夜:「人は変われる」

「人は変われる」「世界はシンプルである」「誰もが幸せになれる」この3つが老人の唱える持論でした。 第一夜ではこの3つの内の「人は変われる」について議論が展開されます。

青年からの主張

人は誰しも変わりたいと願っている。もちろん私も変わりたいと思っている。どうしてみんなが変わりたいと思っているのか。 その答えは、みんなが変われずにいるからだ。もしも簡単に変わる事が出来るのなら、わざわざ「変わりたい」などと願う事もないだろう。

何故こうも頑なに人というのは簡単に変わる事が出来ないのか?

私の友達で、もう何年間も家に引きこもっている男がいる。彼は本当は外に出たいと思っているし、仕事に就きたいとも思っている。 今の自分を「変えたい」と切に願っている。しかし外に出るのが恐ろしいと感じている。変わりたくても変われないままでいる。

外に出られなくなった直接の理由は私も分からない。両親との関係性、あるいは学校や職場でイジメを受けた、もしくは甘やかされて育った。 とにかく彼の「過去」に何かしらのトラウマとなるような「原因」があったのは確かだ。

老人からの反論

結果(引きこもりになった)の前には原因(何かしらのトラウマ)がある。 要するに現在の私たちは、過去の出来事によって規定されるのだ、そういった理解で宜しいですね?

しかし、あらゆる人々の「現在」が過去の出来事によって規定されるという主張はおかしくないでしょうか? お友達と同じようにトラウマとなる原因を経験した人は、すべてがお友達と同じように引きこもり状態に陥っていないのは辻褄が合わない。

過去の原因だけで物事を説明しようとすると話はおのずと「原因論」に行き着きます。 すなわち我々の現在や未来はすべて過去の出来事によって決定されており、動かしようのないものになる。

過去の「原因」ではなく、今現在の「目的」で物事を考えるという「目的論」がアドラー心理学の立場です。 先ほどの引きこもりのお友達の例を当てはめるなら、こうなります。

「1:不安だから」→「2:外に出られない」のではありません。順番は逆で「1:外に出たくないから」→「2:不安という感情を作りだしている」 アドラー心理学ではこういう風に考えるのです。「原因論」で考えるか「目的論」で考えるかの違いです。

そして大切な事は我々人間は原因論を信じ続けるかぎり、一歩も前に進むことが出来ないし、変わることも出来ません。過去に縛られたまま、この先ずっと幸せになれなくなります。

アドラー心理学ではトラウマを明確に否定している

さて、老人の主張は如何だったでしょうか。納得できたでしょうか。青年の友達が引きこもりになった真の理由をこう説明しています。

外に出ることなく自室に引きこもっていれば親が心配してくれる。親の注目を一身に集められる。丁寧に扱ってくれる。 もし家から一歩でも外に出てしまうと、誰からも注目されない「その他大勢」に成り下がってしまう。凡庸になる私、あるいは他者より見劣りした私になってしまう。 そして誰も大切に扱ってくれなくなる。これこそが引きこもりの人が心の奥に秘めた真意なのだ。

この老人の主張を実際に引きこもりの方に聞かせたらどう感じるのでしょうか。恐らく「その老人の主張は間違っている。納得できない」となるんじゃないでしょうか。 老人の主張の全部が納得できる訳ではないけれど、原因論を信じていれば過去に縛られてしまって前に進むことが出来ないという主張は分からなくもない、と私は感じました。

一般的な心理学からの観点

「嫌われる勇気」の本の内容から少し脱線してしまいますが、一般的な心理学からの観点を補足説明させて下さい。 人間の脳が生み出す思考回路のシステムについて、私が以前に見聞きした内容です。

①感情 → ②思考 → ③行動、と認識されがちだけど実際は

①感情 → ②行動 → ③思考、の順番である

従って何か行動を起こす時に「正当な理由」や「動機づけ」などはほとんど無意味である

にわかに信じがたい事実かも知れませんが、1つ例を挙げると上記の思考回路のシステムに納得できると思います。掃除を例に出します。

「感情:掃除しなきゃな」→「思考:でも邪魔くさいな」→「行動:だから寝転がったまま」と私たちは考えてしまいがちです。でも実際は、 「感情:掃除しなきゃな」→「行動:寝転がったままの状態」→「思考:邪魔くさいな」という順番なのです。

「寝転がったままの状態」「行動していない状態」というのも一種の行動に含まれるのです。だから「行動していない自分」という初期状態を維持する為に後から 「邪魔くさいな」という思考が生まれてきて、動かない自分を正当化する為の理由を脳が後付けで考えてくれるのだそうです。

だから実際に「掃除をする」という行動に一度移してしまえば「邪魔くさい」という思考がいつの間にか消え去っていて、 気付けば何十分も掃除をしてしまい、部屋や机がピカピカになったという経験は誰しもがお持ちだと思います。

自分自身の主観や認識は絶対に正しいものだと信じ込んでしまいがちですが、間違っている事もあるんだと理解する事が大切に思います。 「嫌われる勇気」の老人の主張に関しても同じで、頭ごなしに否定してしまうのではなく、まずは一度受け入れてみると自分の思考が多角的になり視野も広がるんじゃないでしょうか。

人は常に「変わらない」という選択をしている

人は変わる事が出来ないというのが「青年」の主張だ。「私は悲観的な性格だ」この悲観的な性格は変える事が出来ないと思っている。 しかし人は変わる事が出来るというのが「老人」の主張です。もちろん性格だって変えられるという。老人の主張をもう少し詳しく解説してみましょう。

性格という言葉には生まれつき与えられたものなので変えられない、そういうニュアンスが含まれると感じられるかも知れないので少し言葉を言い換えてみる。 「私は悲観的な性格だ」から「私は悲観的な世界観を持っている」と。世界観であれば変容させていく事が可能に感じられる。 アドラー心理学では世界観(性格や気質も含めて)は自ら選びとるものだと考えられている。

もちろん意識的に「悲観的な性格の私」を選んだ訳ではないでしょう。人種・国籍・文化・家庭環境といったものも大いに影響しています。 それを踏まえた上でなお「悲観的な性格の私」を選んだのは自分自身だという事です。およそ10歳前後の時に無意識に選んだというのがアドラー心理学の見解です。

もしも性格や気質が生まれつき与えられた先天的なものではなく、後天的に自分で選んだものであるのなら、再び自分で選びなおす事も可能です。 この先どうするのかは自分次第。これまで通りの性格を選び続ける事も、新しい性格を選びなおす事もすべては自分の一存に委ねられています。

人は決して変われないのではない。人はいつでも、どんな環境や境遇に置かれていても変われます。貴方が変われないでいるのは、 自らに対して「変わらない」という決心を下しているからである。老人はそう主張します。

人はいつでも変わる事ができる

少しくらい不便で不自由なところがあっても、そのまま変わらずにいる方がラクだと思っているのでしょう。 「今のままの私」であり続けていれば今までの経験上、起こる出来事にどう対処していけば良いのか推測できる。乗りなれた車を運転しているような状態である。

一方、新しい性格を選んでしまったら、新しい自分に何が起きるか予測できないし、どう対処していけば良いのかも分からない。 未来を見通す事も困難になるし、不安も大きくなる。もしかすると今よりもっと苦しく、もっと不幸な人生が待っているかも知れない。 つまり、不満はあっても「今のままの私」でいる方がラクであり、安心なのだ。

変わる事で新たに生まれる「不安」と変わらない事で付きまとう「不満」。多くの人はラクな後者を選択する。 もし新しい性格を選択しようとする時、我々には大きな「勇気」が試される。 あなたが不幸なのは過去のトラウマや環境のせいではない。能力が劣っている訳でもない。 あなたには、ただ1つ勇気が足りない。いうなれば幸せになる勇気が足りていないのです。

第一夜、閉幕 ─────。

老人の1つめの主張「人は変われる」について解説しました。 過去の出来事、今の環境や境遇はまったく関係ない。「勇気」さえあれば、今この時点から人は変わる事が出来るという事でした。

嫌われる勇気 - 老人と青年

第二夜:他者の課題を切り捨てる

青年と老人の議論は白熱した状態のまま第二夜へと突入しました。 第二夜目となる今夜の議題は「本当の自由とは何か」について議論が展開されます。

青年からの主張

「貨幣とは鋳造された自由である」お金によって得られる自由はあるでしょう。実際のところ、衣食住のすべては金銭によって取引されている訳ですから。 とはいえ、巨万の富があっても人は自由になれない。何が不自由なのか?「対人関係」です。愛する人がいない。親友がいない。みんなから嫌われている。これは大きな不幸です。

もう1つは「しがらみ」です。好きでもない人と関わらなきゃいけなかったり、嫌な上司の顔色を窺わなきゃいけない。 この社会に居続ける限り、人間関係は切り離すことが出来ない問題です。特に家族に関しては特に切り離すことが難しいでしょう。

うちの両親は私にずっと口を挟み続けてきました。勉強しろ、この大学に行け、こんな仕事に就け。 これは大きなプレッシャーでしたし、まさしく「しがらみ」でした。でも私は両親の意向に添って進学先を決めました。 これで両親にも認めてもらえるだろう、と。

認めてもらいたいのは「承認欲求」ですよ。対人関係の悩みはここに集約されます。人間は常に他者からの承認を必要としている、 相手が「敵」ではないからこそ、その人からの承認が欲しいのです。私は両親から認めてもらいたかった。

老人からの反論

他者から承認される必要などありません。むしろ承認を求めてはいけない。承認されると確かに嬉しいものでしょう。 しかし承認されることは絶対的に必要なものではありません。どうして承認を求めるのでしょう?なぜ他者から褒められたいのでしょう?

適切な行動をとると褒めてもらえる。不適切な行動をとると罰せられる。アドラーはこうした賞罰教育を批判しました。賞罰教育の先に生まれるのは 「褒めてくれる人がいなければ適切な行動をとらない。罰する人がいなければ不適切な行動をとる」こういった誤ったライフスタイルです。

我々は他者の期待を満たす為に生きていない

貴方は他者の期待を満たす為に生きている訳ではないし、私も他者の期待を満たす為に生きているのではない。他者の期待など満たす必要はないのです。 自分が自分の為に自分の人生を生きていないのであれば、一体誰が自分の為に生きてくれるのでしょうか。

他者からの承認を求め、他者からの評価ばかりを気にしていると最終的には他者の人生を生きることになりますよ。 本当の自分を捨てて、「こんな人であって欲しい」という他人の期待に沿って生きていく事になる。

そして覚えておいて下さい。もしも貴方が「他者の期待を満たす為に生きていない」のだとしたら他者もまた「貴方の期待を満たす為に生きていない」のです。 だから相手が自分の思い通りに動いてくれなくても決して怒ってはいけません。

他者の期待などに応えなくても良いのです。これは傍若無人に身勝手に振る舞っても良いという意味ではありません。 ここを理解する為にはアドラー心理学における「課題の分離」という考え方を知る必要があります。

課題の分離とは何か

例えばなかなか勉強しない子供がいる。授業も聞かない、宿題もやらない。貴方が親ならどうしますか? 塾に通わせる?家庭教師を雇う?無理やりにでも勉強させる?そういった強制的な手法で勉強させた場合、勉強が好きになると思いますか?

このような「勉強する」という課題があった時、「これは誰の課題なのか?」という観点から考えを進めていくのがアドラー心理学です。 勉強することは子供の課題です。親が「勉強しなさい」と命じるのは他者の課題に対して土足で踏み込む行為です。これでは衝突してしまいます。

我々は「これは誰の課題なのか?」という視点から自分の課題と他者の課題とを分離していく必要があるのです。 分離して、他者の課題には踏み込まない、ただそれだけです。

世の親たちは「あなたの為を思って」という言葉をよく使います。しかし親たちは明らかに自分の目的、それは世間体や見栄、あるいは支配欲を満たす為に動いています。 つまりは「私の為」であり、その気持ちを察知するからこそ子供は反発するのです。

ただし放任主義を推奨している訳ではありません。子供が何をしているのか知らない、知ろうともしないという態度ではなく、子供が何をしているか知った上で、見守る事。 本人が勉強したいと思った時はいつでも援助する用意があると伝えた上で、子供の課題に土足で踏み込むことはしない。頼まれてもないのに口出ししてはいけないのです。

「馬を水辺に連れて行く事はできるが、水を呑ませることは出来ない」ということわざがあります。精一杯の援助は行うけれど最終的に水を呑むかどうかの判断を下すのは馬なのです。 子供の場合も同じ、自分を変えることが出来るのは自分しかいないのです。

他者の課題に介入すること、他者の課題を抱え込んでしまうことは、自分の人生を重く苦しいものにしてしまいます。 自分と他者の課題の境界線を知りましょう。そして他者の課題は切り捨てる。それが人生の荷物を軽くし、世界をシンプルなものにする第一歩なのです。

嫌われる勇気

他者から承認される事を目指して縛られた人生を選ぶのか、それとも承認なき自由の道を選ぶのか、大切な問題です。 常に他者の視線を気にすること、常に他者の顔色を窺いながら過ごすこと、他者の望みに応えるように生きること。 これらは非常に不自由な生き方です。

どうしてそんなに不自由な生き方を選択しているのでしょうか。これまで他者から認められたい、承認欲求という言葉を使ってきましたが、 要するに誰からも嫌われたくないという思いがあるのでしょう。勿論わざわざ自分から嫌われたいと望む人間などいないでしょう。

でも、こう考えてみて下さい。

誰からも嫌われない為にはどうすればいいか?答えは1つしかありません。常に他者の顔色を窺いながら、あらゆる他者に忠誠を誓う事です。

もしも周りに10人の他者がいたなら、その10人全員に忠誠を誓う。そうしておけば当座のところは誰からも嫌われずに済みます。 しかしこの時、大きな矛盾が待っています。

嫌われたくないとの一心から、10人全員に忠誠を誓う。これは出来ないことまで「できる」と約束したり、取れない責任まで引き受けたりしてしまう事になります。 無論、その嘘はほどなく発覚してしまうでしょう。

そして信用を失い、自らの人生をより苦しいものとしてしまう。もちろん嘘をつき続けるストレスも想像を絶するものがあります。 ここはしっかりと理解して下さい。

他者の期待を満たすように生きる事、そして自分の人生を他人任せにする事。これは自分に嘘をつき、周囲の人々に対しても嘘をつき続ける生き方なのです。

他者の評価を気にかけず、他者から嫌われることを怖れず、承認されないかも知れないというコストを支払わない限り、自分の生き方を貫くことは出来ない。 つまり、自由になれないのです。

貴方の事をよく思わない人がいても、それは貴方の課題ではない。そして「これだけ尽くしているのに」「自分の事を好きになるべきだ」と考えるのも、 相手の課題に介入した見返り的な発想です。これが先ほどもご説明した「課題の分離」です。

嫌われたくはないけれど、別に嫌われても構わない。嫌われる可能性を恐れることなく、前に進んでいく。 幸せになる勇気には「嫌われる勇気」も含まれます。その勇気を持ちえた時、貴方の対人関係は一気に軽いものへと変わるでしょう。

第二夜、閉幕 ─────。

第二夜では「課題の分離」という考え方を解説しました。他人の課題を切り捨てる事で、人間関係、ひいては自分の世界がとてもシンプルなものへ変わって行きます。 さらに今回も嫌われる「勇気」というキーワードが登場しました。アドラー心理学は勇気の心理学なのです。

閑話休題

さて、「嫌われる勇気」では全部で第五夜にわたって議論が展開されます。これまで第一夜と第二夜に行われた議論の中で私が大切だと感じたところを抜粋して足早に解説してきました。 枝葉の細かい部分のニュアンスまではお伝えする事は出来ませんし、すべての議論について解説する事はあまりにも膨大な文章量になってしまう為、こちらも不可能です。

本の全容が気になる方は是非とも書店に足を運んで実際に本を手に取って読んで頂きたいのですが、 第五夜で「自己受容」について青年と老人が議論を重ねる場面があるのですが、その一部を少しだけご紹介して当ページの締めくくりとさせて頂きます。

普通であることの勇気

時代は令和。ひと昔前のお話になってしまうかも知れませんが、今はもう解散してしまいました国民的アイドルグループだったSMAPで 「世界に一つだけの花」という曲があり、その中で「ナンバーワンにならなくても良い、もともと特別なオンリーワン」という歌詞があります。

この頃あたり(2000年代初頭)から、「とにかく自分という個性が大切なんだ、オンリーワンで良いんだ」という風潮が世の中に浸透していきました。 ナンバーワンになる事は優秀であること。オンリーワンである事は特別であること。 アドラー心理学の世界では「特別な自分であること」さえも否定しています。

老人からの教え

すべての人間が「特別に良くある」事など不可能です。人間にはどうしたって得手不得手があるし、差が出てしまう。天才はこの世にごく一握りしかおらず、 誰もが優等生になれる訳ではない。競争に破れた大半は「特別ではない」存在となる。そこでアドラー心理学が大切にしているのが「普通であることの勇気」です。

なぜ特別になる必要があるのか?それは「普通の自分」が受け入れられないからでしょう。しかし普通であること、平凡であることは本当に良くない事なのか。 何か劣った事なのか。実は誰もが普通なのではないか。そこを突き詰めて考える必要があります。

もしも貴方が普通であることを拒絶するのであれば恐らく「普通である事」を「無能であること」と同義でとらえているのでしょう。 普通である事は無能である事ではありません。わざわざ自らの優位性を誇示する必要などないのです。

幸福な人生を歩む為に高邁な「夢」や「目標」が必要だとしたならば、ちょうど登山で山頂を目指すようなイメージでしょうか。 しかし、もしも人生が山頂に辿り着くための登山だとしたら、人生の大半は「途上」になってしまいます。

仮に山頂に辿り着けなかったとしたら、あなたの人生はどうなるのでしょう?事故や病気などで辿り着けない事もありますし、 登山そのものが失敗に終わる可能性も十分に有り得ます。「途上」のまま「仮の人生」のまま人生が中断されるのです。その場合の人生とは何なのでしょうか?

人生は点の連続

人生を登山のように考えている人は自らの人生を「線」として捉えています。しかし線として捉えるのではなく人生は「点」の連続なのだと考えて下さい。 チョークで引かれた実線を拡大鏡で覗いてみると、線だと思っていたものが連続する小さな点であることが分かります。

線のように映る人生は点の連続であり、すなわち人生とは連続する刹那(瞬間)なのです。 我々は「今、ここ」にしか生きる事が出来ません。計画的な人生など不可能なのです。

人生とは、今この瞬間をくるくるとダンスするように生きる、連続の刹那なのです。ダンスを踊っている「今、ここ」が充実していればそれで良いのです。 そしてふと周りを見渡した時に「こんな所まで来ていたのか」と気づかされる。

ダンスは踊ること自体が目的であって、ダンスによってどこかに到達するのが目的ではない。勿論、踊った結果どこかに到達する事はあります。 踊っているのですから、その場に留まる事はありません。しかし目的地は存在しないのです。

大きな夢が実現したとか目標を達成できたとか、そんな事は関係なく「今、ここ」を真剣に生きてきた人生だとすれば、その人生は必ず幸福であるはずです。

「人生の意味は、あなたが自分自身に与えるものだ」

嫌われる勇気の書評と感想

アドラー心理学とは「まったく新しい心理学」であると冒頭部分で説明させて頂きました。 また、アドラー心理学は時代を100年先行した思想であるとも言われており、 アドラーの思想には時代がまだまだ追いついて来れていないとも言われています。

なので、もしかしたら難解な部分や受け入れがたい部分もあったかも知れません。 それでもこのアドラーが提唱する思想は物事を多角的に捉え、斬新であり、 本を読み進めていくと共に自分の価値観が広がっていくように感じられました。

また、「他者の課題の分離」という考え方がこの本では紹介されていましたが スティーブン・R・コヴィー氏による名著、 7つの習慣でもほぼ同じ内容の事が言及されています。 人生において、自分の影響力が及ばない他者の課題にエネルギーを注力するのは得策ではないという事かも知れません。

本のタイトルは「嫌われる勇気」ですが「幸せになる勇気」を意識して今後、より良い人生を歩みたいと思いました。 それではまた次回の書籍レビューでお会いしましょう。 最後までご覧いただきまして誠にありがとうございました。