ゼロ - 堀江貴文

「ゼロ/堀江貴文」の解説と要約&あらすじ・内容の説明と感想レビュー

「ゼロ~なにもない自分に小さなイチを足していく~」は2013年に初版発行され、40万部の売上を記録しています。ホリエモンこと、堀江貴文さんのヒット本です。 証券取引法違反で逮捕され、出所後の完全書き下ろし第一弾となる本でもあります。

堀江さん自身の家庭環境や生い立ちについても本の中で初めて語られており、 「ホリエモンの思考の源泉」を学びたいというニーズと共に「堀江さんの人間性そのもの」を知りたい人にもオススメ出来る本です。

この本を読んで「ホリエモンはただの拝金主義者だと思っていたけどイメージがガラっと変わった」という読者も多数います。 ご自身の学生時代のエピソードに加えて、そこからビジネスのマインドへと上手に話をつなげています。

ぶっきらぼうで、どちらかというと日頃から「理解できる奴だけ理解すれば良い」というようなニュアンスの発言が多い堀江さんですが、 この「ゼロ」という本はかなり丁寧に仕上げられていて、誰でも読みやすい本になっている、と本が発売された当時よくおっしゃられていました。

事実、堀江さんの本は数多く出版されていますが、その中でもこの「ゼロ」の評判はかなり良く、読者レビューでも高得点をつけています。

簡単な要約

~なにもない自分に小さなイチを足していく~というサブタイトルの通り、 「金なし・コネなし・実力なし」の何もない状態から「小さなイチ」を積み上げていった方法が書かれています。

また、証券取引法違反で逮捕された事から会社・社員・信用・資産など、すべてを失い、再び「ゼロ」の状態に戻った堀江さん。 釈放後、それでも希望を捨てずに諦めない姿勢と、ご自身にとっての「働くこと」の意味について語られています。

堀江さんは「できない理由」「やらない理由」「行動しない理由」何かとそれらしい理由をつけて行動に移さない人間が世の中には大勢いる事を実感していて、 それらの行動できない人(ゼロの人)たちにイチを足していく(行動をしていく)ようになれる事をテーマに掲げてこの本を書いています。

※行動に移せない人が、行動を移せるようになったところで堀江さん自身に何のメリットもありません。 ご自身でも「自分はお節介な性格だ」と分析されています。

本の冒頭は刑務所の中から始まる

「刑務所の中でどんなことを考えていましたか?」「刑期を終えて出所したら何を最初にやりたいと思っていますか?」 よく聞かれる出所後の質問。ホリエモンの答えはこうだ。「早く働きたい、と思っていました」

働くことに理由はない。働くなんて当たり前。シンプルにそう片付けてきた。 しかし独房暮らしをキッカケに自分が働く意味について深く考えるようになる。

隠す事でもないだろう。僕(堀江)は無類の寂しがり屋だ。よく「一人になれる時間が必要だ」とか「誰にも邪魔されない時間を持とう」といった話を耳にするけど、 その気持ちをまったく理解できない。これまでの人生で「一人になりたい」と思った事がないのだ。

できれば朝から晩まで誰かと一緒にいたいと思うし、例えそれがインターネットや携帯電話であったとしても誰かとつながっていたい。 独房暮らしが始まってから悪夢にうなされ、徐々に神経がすり減らされていき、そして自分自身の事を見失っていく。

その後、長野刑務所に輸送され、工場での仕事を通じて受刑者との交流があった。介護衛生係としての仕事をこなし、 原稿執筆の仕事をこなし、受刑者や面会者、メールマガジンの読者などと触れ合う事で、少しずつ自分という人間を取り戻していった。

思えば僕は、ずっと前から知っていた。働いていれば、一人にならずに済む。

働いていれば、誰かとつながり、社会とつながる事ができる。

そして働いていれば、自分が生きていることを実感し、人としての尊厳を取り戻す事ができるのだと。

だからこそ、僕の想いは「働きたい」だったのだ。

老人たちは、老人ホームでのんびり過ごしているよりもボランティアでも何でも仕事をこなしている方が健康的だ。 その証拠に老人ホームに入所している老人たちの中には精神疾患を患っている人が多い。

いまこそ「働くこと」を考えたい。

働くことの意味

自由の身になって、ゼロ地点に立ち返った今こそ、もう一度自分にとっての「働くこと」の意味を考え、その答えを多くの人たちと共有したい。 どこで働き、誰と働き、どんな仕事を、どう働くのか。そもそも人はなぜ働くのか。

このままの働き方を続けていてもいいのか。これは堀江自身の個人的な問題意識であり、それと同時に今の日本全体に投げかけられた問いでもある。 堀江さんは10代や20代の若い世代から相談を受ける事が多く、メルマガだけでも1万件以上もの質問に答えてきたし、ツイッターでも引っ切りなしに質問が飛んでくる。

独立して起業したいのだが、どんなビジネスプランが考えられるか?こんなアイデアを持っているのだが、勝算はどれぐらいあると思うか?など。 質問者の共通点はみんな「掛け算の答え」を求めている。成功への近道を求め、ラクしながら成功できる方法を考えている。

もしかすると「ホリエモンに聞けばラクをしながら成功する方法を教えてくれるかも知れない」とでも思っているのだろうか。 でもゼロに何を掛けてもゼロのままだ。ここで確認しておきたい事がある。

小さなイチを足していく

人が新しい一歩を踏み出そうとする時、次へのステップに進もうとする時、そのスタートラインにおいては誰もが等しくゼロなのだ。 物事の出発点は「掛け算」ではなく「足し算」でなければいけない。まずはゼロの自分に小さなイチを足して一歩を踏み出す。そこから始まるのだ。

自分だってそうだ。出所直後の自分は何もかも失った「ゼロ」状態の人間だ。私は働く、ただそれだけだ。 ライブドア時代から続く、マスメディアを騒がせてきた「ホリエモン」ではなく、「ゼロとしての堀江貴文」に小さなイチを積み上げていくだけだ。

ゼロになる事は、みんなが思っているほど怖いものではない。失敗して失うものなんて、たかが知れている。何よりも危険なのは、 失う事を恐れるあまり、一歩も前に踏み出せなくなることだ。これは経験者として強く訴えておきたい。

もし、あなたが「変わりたい」と願っているなら、アドバイスは1つだけ。掛け算を目指さず、足し算から始めよう。 自分にイチを足していく事で、常識から自由になり、しがらみから自由になり、お金からも自由になれる。掛け算が出来るようになるのは、随分あとになってからだ。

どんなにたくさん勉強したところで、どんなにたくさんの本を読んだところで、人は変わらない。 自分を変え、周囲を動かし、自由を手に入れる為の唯一の手段、それは「働くこと」なのだ。

堀江貴文の少年時代

「働くこと」の意味が語られた後、本の内容は堀江さんの少年時代の話へと移っていきます。 簡易的ではありますがザックリと堀江さんの小学校時代から大学時代までのお話をご紹介していきます。

※この章は自己啓発やビジネスに関する内容ではなく「堀江さん自身」について知りたい人向けとなっています。 興味のない人は飛ばしてしまっても問題ありません → この章を飛ばして読む

堀江少年の家庭環境

福岡県の八女市出身(八女市は久留米市の近くにある市)で、言葉は少し悪いかもしれないが山奥の田舎町だ。一人っ子の長男として育てられる。 父親は地元の八女市の高校を卒業し、そのまま地元の企業に就職し、ずっと同じ会社(トラック販売の会社)に勤務する典型的な昭和の父親といった感じ。

唯一の趣味は野球観戦で、テレビの野球中継で大好きなジャイアンツが負けると途端に機嫌が悪くなり、 理屈っぽい性格の堀江少年と口論になろうものなら平手打ちが飛んでくる。

いつも家庭内暴力を繰り返していたかというと、そういう訳ではなく、ジャイアンツが負けて機嫌が悪い時や 酒に酔った時ぐらいだった。普段は無口で物静かな人物だったという。

母親は、父親と同じ地元の八女市の高校を卒業した7つ年下の後輩。父親とはお見合いで知り合った後に結婚。 自分の意見を絶対に曲げない人間で、堀江少年が約束を破ったり、少しでも文句を言うと激高し怒鳴り散らかす。

時には堀江少年を家から追い出したり、包丁を胸に突きつけるなど、ややヒステリック気味な部分がある。 他人の意見を素直に受け止めたり、自分の非を認めたり、自分の気持ちを素直に伝えるのが下手で、堀江少年以上に不器用な性格。

当時、周りの母親たちは専業主婦をしているのが当たり前の時代だったが、堀江少年の母親は外に働きに出ていた。 共働きで貧乏なのかというと、そういう訳でもなく。家庭内暴力がはびこっていた訳でもネグレスト家庭だった訳でもない。

よくある家庭環境で育つ堀江少年

夫婦仲はそこまで良くなかったが離婚するほどではない。笑顔が絶えないような明るい家庭でもなかった。 やや癖は強いが、どこにでもありそうな、ごくごく普通の家庭で育った堀江少年。

ただ、「文化と教養」といった言葉とは無縁の家庭だったと堀江さんは振り返る。読書の習慣がない父親。書斎は勿論あるはずもなく、まともな本棚さえもない。 テレビがあれば満足、ジャイアンツが勝てば大満足という父。唯一の読み応えのある本と言えば百科事典だけ。

当時は家庭用ゲーム機の「ファミコン」が大流行していた時代だが、そんなものを買ってもらえるはずがなかった堀江少年は 百科事典を最初から最後まで熟読するような小学生時代を送っていたという。

「情報ジャンキー」の現在の堀江貴文のルーツはこの少年時代の百科事典を読み漁るというとこから始まっていたのかも知れない。 百科事典のおかげなのか、小学校のクラス内では勉強の成績は断トツで1位だったという。

都会に出て輝きだした中学生時代

勉強の成績が断トツだった堀江少年は、久留米市にある進学塾に通うことになり、 地元の公立中学校ではなく福岡県下で一番の進学校である私立中学に入学する。

進学塾では講師陣の教え方が上手かった事も手伝って、あれほど退屈でつまらなかった勉強が面白くなりはじめ、 成績も上々で、充実した学生生活を送り始める。

この頃から東大を目指したりしていた訳ではなく、地元の山奥に閉じ込められた八女市の生活よりも、 都会の久留米市で進学塾のおもしろい仲間たちと一緒に過ごす日々の方が刺激的で純粋に楽しかったという。八女市の閉鎖的な生活にはもう戻れないと。

パソコンとの衝撃的な出会い

「ファミコンみたいなゲーム機じゃなくて、これは勉強の道具なんだ」と親に熱弁して買ってもらったパソコンに堀江少年はのめり込んでいく。 そのうち学校や友達なんてそっちのけでプログラミングに明け暮れる日々が続く。

中学校に入学した時点ではトップ10ほどの成績だったが、パソコン購入をキッカケにみるみる成績が下がっていき、 学年202人中、199位という順位まで落ちていってしまう。

堕落した生活の高校時代

あれだけハマったパソコンはいつしか埃をかぶるようになり、麻雀、ゲーセン、ビリヤードといった享楽的な遊びの時間へと切り替わっていた。 将来のことなんて考えられず、目の前の快感に流されていく日々。昨日と同じ今日が続き、今日と同じ明日を迎える。

高校3年生の春に受けた東大模試では「F判定」。簡単に言うと測定不能、あなたの能力では絶望的です、というサインだ。 特に将来の希望だとか、特に希望する大学なんかはなかったという。

唯一の願望は「今ここ」から脱出する事だった。それが堀江家なのか、八女市なのか、福岡県なのか、九州なのか、よく分からない。 とにかく漠然と「今ここ」での生活にはうんざりしていた。

曲がりなりにも進学校に通っているという事もあり、地元九州で一番の大学「九州大学」を目指す友達が多かったという。 でも堀江少年が九州大学を目指したところで「今ここ」の生活から脱出できる保証がなかった。

東京の「早稲田・慶應」ではどうか。私立大学の学費なんて親が払ってくれる訳がない。では公立の「一橋大学」はどうか。 八女市から出たこともない両親にとっては一橋の名前すら知らないだろう。

「今ここ」から抜け出すためには圧倒的な説得材料が必要だった。最大級の結果が必要だ。考えぬいて出てきた結論はやっぱり、 うちの両親でも知っている日本一の大学、東大に合格する事しか選択肢はなかった。

東大を目指し始めた高校3年生

結果は皆さんもご存じの通り、無事に東大合格するのだが、血の滲むような努力をしたように思われるかも知れないが、そんな意識はまったくなかった。 実際、どんなに追い込まれても毎日10時間の睡眠時間を確保していたほどだ。

要するに起きている残りの14時間を食事や風呂も含めてすべてを勉強時間に充てればいいのである。 勉強でも仕事でもそうだが、歯を食いしばって努力した所で大した成果は得られるもんじゃない。

努力するのではなく「ハマる」こと。何もかも忘れるくらい没頭すること。それさえ出来ればF判定が出た東大の受験勉強だって楽しくなってくる。 中学時代のプログラミング作業とまったく同じ。何事も得意だとか苦手だとかいう先入観で物事を判断せず、目の前の作業に「ハマって」しまえばいい。

東大に合格してから

東大に入学した当初は1・2年生で勉強に励んで3年で理転(文系から理系に転入すること)を目指していたが、入学から数か月もしない内に日本の研究者が置かれた状況に幻滅していく。

超最先端の研究でも国からの研究費が下りず、さらに内部では嫉妬や派閥争いなど権力闘争もあり、 閉鎖的なムラ社会が形成されているという内部事情を東大の先輩やOBたちから知らされる。

東大の将来の先に絶望する

こうしてアカデミズムの世界に幻滅していった。自分が目指そうとしていた将来は暗澹としたものに見えてしまったのだ。 そして東大での学生生活を、また麻雀付けの日々に溺れていく。

モテない学生生活が続く

学生時代の醍醐味といってもよい恋愛面でもまったくモテなかった。中学・高校と男子校だった事もあり、「失われた6年間」を取り戻そうと 大学では彼女を作ろうと意気込んでいた。しかし、モテるモテない以前の問題に直面する事になる。

女兄弟のいない一人っ子、中高6年間の男子校生活。女の子に対する免疫力がゼロに等しかった。女の子と目を合わせる事も出来ないし、会話なんて到底無理な話だった。 大学ではもちろん女子生徒も多くいるのだが、話しかけようとすると喉の奥がギュッと閉まる感覚に襲われ、声が出なくなり体も固まっていたという。

自分のルックスや外見に自信を持っていた訳でもないし、田舎の出身だし、東大では勉強さえ取り柄にならない。 ファッションや流行にも疎いし、自分なんかと喋っても何も面白くないだろうという卑屈な考えもよぎる。全身コンプレックスの塊だった。

結局女の子とマトモに話せるようになったのは30代半ばだという。では対人関係全般が苦手だったかというと、そういう訳ではなかった。 たとえば寮生活・交渉事などでは自分の意見を堂々と話すことが出来ていたし、必要があれば相手の意見を聞き入れる事だって出来ていた。

あなたが仕事や人生に怖気づく理由

こんなモテない学生時代のエピソードや、コンプレックスの塊だった話などをしているのには理由がある。 今となっては良く分かる。結局これは女の子を前にした時の「自信」の問題なのだ。

そして自分の自信を形成する為の「経験」が圧倒的に不足していたのだ。 少年時代に共学の学校に通ったりして、もっと女の子と接する経験を持っていれば女の子に対する多少の免疫が出来ていただろう。 モテる・モテないは別として「普通」に振る舞う事は出来ただろう。

これは恋愛だけに限った話ではない。例えばビジネスでも、転職したいとか、起業したいといった希望を持ちながらも なかなか行動に移せない人たちがいる。僕が女の子にキョドっていたのと同じで、そういう人たちもまた仕事にキョドり、人生にキョドっているのだ。

大きなチャンスから逃げ回り、人生に向き合うと頭が真っ白になる。けどそれと同時に、仕事や人生ともっと仲良くなれることを願っている。 どう振る舞えば良いのかわからず、あたふたしている。正に女の子を前にしてキョドっているオタク少年と同じなのだ。

仕事でも人生でも、もちろん異性関係でもキョドってしまうのは性格の問題ではない。ルックスなど関係ないし、学歴や収入、社会的な地位とも関係ない。 これはひとえに「経験」の問題なのである。そして経験とは、時間が与えてくれるものではない。

ダラダラと無駄な時間を過ごしたところで、何の経験も得られない。何かを待つのではなく、小さな勇気を振り絞り、自らの意思で一歩前に踏み出すこと。 経験とは、経過した時間ではなく、自らが足を踏み出した歩数によってカウントされていくのである。

挑戦を支える「ノリ」の良さ

友達からとある事に誘われて、やってみるのか断るのか。あるいは面白そうなイベントに誘われて、参加するのかしないのか。 イベント会場で積極的に話をしようとするのか、会場の隅で傍観者になるのか。いずれとるに足らない些細なことだ。

しかし、あらゆる人生とは、こうした小さな選択の積み重ねによって決まってくるのだと思っている。 片田舎に生まれ育った境遇も決してマイナスだとは思っていない。何故ならチャンスだけは誰にでも平等に流れてくるものだからだ。

フットワークの軽さ、好奇心の強さ、そしてリスクを承知で飛び込んでいける小さな勇気。それらの総称が「ノリの良さ」だ。 女の子の前でキョドっていた僕は女の子に対する「ノリの良さ」が欠落していた事になる。チャンスをみすみす逃し、フットワークを重くしていた。

こういう話をすると「どれがチャンスなのか見極めが出来ない」という人がいる。でもその発想自体がすでに「ノリの悪さ」を示している。 チャンスを見極める必要なんてないのだ。少しでも面白そうと思ったら、躊躇せずに飛び込んでいく。そうしないとチャンスは過ぎ去ってしまう。

運命を左右するアルバイトとの出会い

大学3回生になっても相変わらず麻雀漬けの堕落した日々を送っていたが、ある時バイトの求人情報が目に留まる「プログラマー募集」。

その手があったか!中学時代にプログラミングに明け暮れた記憶が蘇る。このバイト先で自分が培ってきた技術が通用する事を確認すると、 今度はコンピュータ系ベンチャー企業へと立て続けに転身する。

そしてこの時から中学時代のプログラミングに没頭した時と同じように、あるいは麻雀に明け暮れたのと同じように、仕事だけしか目に入らなくなった。 大学よりも麻雀よりも、そして女の子と遊ぶよりも圧倒的に面白いものを見つけてしまったのだ。そう、インターネットとの出会いである。

インターネットが秘めているポテンシャルを考えると震えが止まらない。みんながこれを使うようになったら世界は確実に変わる。 とてもつもない変化の波が襲ってくるだろう。これはまさに現代の革命だ。正に自分の目の前でIT革命が始まろうとしていた。

バイト先のコンピュータ系ベンチャー企業でもインターネットを専門に扱う部署が立ち上がろうとしていた。 でもそんな生ぬるいことじゃ駄目だ。いっその事、会社全体をインターネット専業にしてしまうくらいの決断が必要だと感じた。

起業をしてからの怒涛の日々

勿論バイトの分際で意見が通るはずがないのは分かっていた。当時、インターネットがビジネスになると本気で気付いていたのは日本で100人ぐらいだったと思う。 幸い、自分は100人の中の1人に選ばれたのでこのチャンスを逃してしまったら後悔する事になってしまう。

誰もやらないのなら自分でやるしかない。持ち前の「ノリの良さ」を活かして在学中に起業する決意を固める。 そして1996年4月、「有限会社オン・ザ・エッヂ」を立ち上げる(株式会社ライブドアの前身の会社)。

起業して数年間は、私生活のすべてを捨てた。友達とも連絡をとらず、もちろん大学に行く事もないし、飲み歩く事もない。 会社にベッドを置いて、毎日のように泊まり込む生活をしていた。睡眠以外の時間はすべて仕事に充てていた。仕事にどっぷり「ハマって」いたのだ。

この時の起業から強制捜査されるまでの10年間で、少なくとも数十年分、ひょっとすると一生分の人生を生ききってしまったのではないか、と思う事がある。 それほどまでに濃密で、充実した、怒涛の10年間だった。「あっという間の10年」ではなく「とてつもなく長い10年」だったように思う。

無罪を主張してきた裁判で実刑判決が言い渡される。さらに懲役2年6ヶ月の実刑判決。時間がもったいない、と思う気持ちがなかったと言えば嘘になる。 それでも全てをありのままに受け入れている。誰かを恨もうとは思わないし、くよくよと失った時間を悔やむつもりもない。

恐らくそう思えているのは、人生をぐるりと一周しきった今、再びゼロに戻って、新しい人生のスタートを切る事ができたからだ。 悔い改めた訳ではない。ただゼロに戻り、もう一度スタートを切って働こうとしている。ただそれだけの事なのだ。

あなたは何の為に働くのか

ライブドアの経営者時代、いろんな人たちから何度も同じ質問をされてきた。 「使い切れないほどのお金が手に入ったんだから、リタイヤしてのんびり暮らさないんですか?まだお金が欲しいんですか?」こういった内容だ。

そういえば年末ジャンボ宝くじの季節が近づいてくると「宝くじで1等が当たったら会社を辞めて南の島で悠々自適に過ごしたい」といった声を耳にする。 もしかすると、これを読んでいるあなたも同じような気持ちを持っているのかも知れない。でもおかしいと思わないだろうか。

大金を手に入れたらリタイヤしてのんびり暮らす。要するに「カネがあれば仕事なんて今すぐ辞めたい」という話で、 裏を返すと「働く理由はカネの為」という事になるだろう。僕の信念とは正反対と言ってもいい考え方だ。

今も昔も、僕はお金の為に働いている訳ではない。その程度のモチベーションであれば、ここまで忙しく働けないだろうし、 他の億万長者の経営者たちだってお金の為に働いていたのであれば、とっくに会社なんて辞めているだろう。

なぜ、我々は働くのか

ここは是非、あなた自身の問題としても考えてみて欲しい。あなたにとっての仕事はどんなもので、あなたは何の為に働いているのか。 「メシを食うため」「家賃を払うため」は理由にならない。そこで考えを止めてしまうのは、ただの思考停止だ。

あなたは今、働くことを「何かを我慢する事」だと思っていないだろうか?そして給料の事を「我慢と引き換えに受け取る対価」だと思っていないだろうか? もしそうだとしたら、人生は灰色だ。耐え忍んだ対価としてお金を受け取っているのなら当然だろう。

人生の中で、仕事はもっとも多くの時間を投じるもののひとつだ。そこを我慢の時間にしてしまうのは、どう考えても間違っている。 ゼロからの再スタートを切ろうとしている今、人が働くことの意味、そしてお金と言うものの正体について考えてみたい。

仕事が嫌いな理由とは

どうしてそんなに仕事が嫌いなのか、その答えはハッキリしている。多くのビジネスマンは自らの「労働」を「お金」に換えている訳ではない。 そこに費やす「時間」をお金に換えているのだ。

もし時間が無尽蔵に湧き出るものなら、それでも構わない。好きなだけ時間を差し出せば良いだろう。しかし年齢や性別、貧富の差に関係なく、 どんな人にも1日は24時間しか与えられていない。残業に費やした時間はそのままプライベートの喪失につながっている。

「労働」ではなく「時間」を差し出している人にとっては、仕事に縛られ、お金に縛られている感覚が強くなるのは当然だろう。 僕が主張したいのは「お金はもらうものではなく、稼ぐものである」という事だ。

自分の時間を差し出しておけば月末には給料が振り込まれる。そんなものは仕事ではないし、働いていても楽しくないだろう。 たとえ会社員であっても、自らの給料を「稼ぐ」という意識を持たなければいけない。

これからの激動の時代、時間以外に提供可能なリソースを持っていない人、給料を漠然と貰っているだけの人は淘汰されていくだろう。 給料をもらう時代はもう終わったのだ。お金を貰うだけの仕事を、お金を稼ぐ仕事に変えていこう。お金から自由になる為に働こう。

僕は20代の早い段階で、お金から自由になる事ができた。それは決して、たくさんのお金を得たからではない。 仕事に対する意識が変わり、働き方が変わったから、お金から自由になれたのだ。

仕事を好きになるたったひとつの方法

これは自分でも不思議だったのだが、受験勉強は好きだった。学校の勉強はあんなに嫌いだったのに、受験勉強だけは好きになる事ができた。 なぜ好きになったのだろうか。仕事でも勉強でも、あるいは趣味の分野でも、人が物事を好きになっていくプロセスはいつも同じなのである。

人は何かに没頭する(ハマる)ことが出来た時、その対象を好きになる事が出来る。スーパーマリオに没頭する小学生はゲームが好きになっていく。 ギターに没頭する高校生は音楽が好きになっていく。読書に没頭する人は本が好きになっていく。そして営業に没頭する営業マンは仕事が好きになっていく。

ここで大切なのは順番だ。人は仕事が好きだから営業に没頭するのではない。順番は逆で、営業に没頭したから仕事が好きになる、のだ。 心の中に「好き」の感情が芽生えてくる前には、必ず「没頭」という忘我がある。忘我とは無我夢中になれる体験の事だ。

仕事に没頭した事がない、無我夢中になった事がない、そこまでのめり込んだ事がない、ただそれだけの差でしかない。 仕事が嫌いだと思っている人は、ただの経験不足なのだ。もちろん仕事や勉強は簡単に没頭できるものではない。

ゲーム・ギャンブル・スマホ。これらは脳科学的に見ても人を容易く没頭させるメカニズムによって作られている。 しかし勉強や仕事にはそうした没頭させる為のメカニズムが用意されていない。では、どうすれば没頭できるのか?

それは「自分の手でルールをつくること」だと言える。 受験勉強・会社経営・刑務作業。僕はいつでも自分でプランを練り、自分だけのルールを作り、ひたすら自分を信じて実践してきた。

フルマラソンと100m走で考えてみよう。フルマラソンに挫折する人は多いけど、さすがに100m走の途中で挫折する人はいない。 どんなに根気のない人でも100mなら集中力を切らさず全力で走れるはずだ。今日という1日を100m走のつもりで全力疾走しよう。

行動に移さない人たち

ここまで読み進めてみて、先述した「ノリ」の良い人なら行動に移すように画策しているだろう。100mを走り出すだろう。 でも恐らくほとんどの人たちは「自分にはできっこない」と最初から諦めてしまっているのだ。

試しにやってもいないのに、「できっこない」と決めつけるのだ。失敗してプライドを傷つけられたくないのか、自分の可能性にフタをして、周囲の景色を見えなくさせる。 そしてその内「やりたいこと」すら思い浮かばなくなってくるのだ。

それに対して僕は宇宙事業・再生事業・オンラインメディアまで、やりたい事で頭がいっぱいだ。 どうしてそんなにやりたい事が出てくるかと言えば、すべての物事に対して「できる」と思い込んでいるからだ。

仕事でも勉強でも恋愛でも、人は「できない理由」から先に考えると、どんどんネガティブになっていく。 自分はできない人間だと自己暗示を強くしていく。ネガティブに出来ない理由を考えていて、好転する物事などひとつもない。

突き抜けられる人と、突き抜けられない人の違いは、次の一点に尽きる。 物事を「できない理由」から考えるのか、それとも「できる理由」から考えるのか。ただそれだけの違いでしかない。能力ではなく意識の差である。

これからの自分がどんな働き方をするのか、もう一度考えて欲しい。それは自分の人生を選ぶことに大きく影響する。 人はメシを食うために働くのではない。働くことは生きること。自らの生を充実させるために働くのだ。

人生には「今」しかない

メルマガに寄せられる質問や講演会の質疑応答で驚かされることがある。若い世代が抱える将来に対する不安だ。 10代20代の頃から「僕らの年金はどうなるのでしょうか?」ともうすでに老後の心配をしていたりするのだ。

老後の心配をする人の他には、人生のロードマップを語る人にも驚かされる。20代で独立し、30代で世間に名を売って、40代で大勝負、50代で後輩を育成し、60代で引退し、 その後は悠々自適に暮らす・・。真顔でそんな話をしてくるのである。

あなたにとっての老後、例えば50年後のことを考えて、何か1つだけでも正確な答えが見つかるだろうか? 50年後の夏は猛暑なのか冷夏なのか、冬にはどれぐらいの雪が降るのか。地震や台風などの天災は大丈夫なのか、戦争は起きないのか。

50年後はなんという名前の政党が政権を取っていて、そのとき日本はまだ議院内閣制なのか。 そもそも日本という国がまだ存在し、国籍や国境が今ほどの意味を持っているのか。

これらの問いは、どれだけ考えても答えが出る問題ではないのだ。そして答えの出ない問いに思い悩むのは、明らかに非合理的な態度だ。 僕らの人生には「今」しか存在していない。

かけがえのない「今」に全力を尽くすこと。脇目も振らずに集中すること。将来の自分とは、その積み重ねによって形成されていく。 10年後も20年後も、僕は間違いなく「何か」にハマっているだろう。誰にも負けないくらい全力疾走で走っているだろう。

でも、その「何か」がどんなものであるのか、自分がどこで、誰と、何をしているのか、まったく想像がつかない。 それは不安ではなく希望だ。計画通りに進まず、先が見えないからこそ人生は面白いのだと思う。

さあ、前を向いて最初の一歩を踏み出そう。バックミラーを見るのはもうたくさんだ。有限の人生、絶望しているヒマなんてないのだ。

ゼロの書評と感想

堀江さんが本の発売当初に言っていた通り、ゼロは「誰でも読みやすい本」になっていて、スラスラと読み進める事が出来ました。 解説部分もとても親切に語られており、丁寧な構成だな、という印象でした。

親切で丁寧な分だけ、逆に恐ろしいと感じる部分が見えた気がしました。「100m走を途中で挫折する人はいない」という言葉がありましたが、 これは言い換えると「行動できない理由など何もない」という事が言いたかったんだと思います。

「できない理由」「やらない理由」「行動しない理由」という逃げ道を1つずつ丁寧に潰していくような言葉が並んでおり、 この本を読み終わっても、それでもまだ何も行動できない人は本当に自分の人生を変える事なんて不可能なんだという事になります。

※それでもまだ保険をかけるなら、「この本が合わなかった・心に響かなかった」と言い訳する事もできますが・・。

印象に残ったキーワードと、登場しなかったキーワード

また、「ノリの良さ」「ハマる」「没頭する」というキーワードが幾度となく登場しました。フットワークが重い人は「ノリの良さ」を思い出し、 仕事や勉強を好きになれない人は「ハマる・没頭する」ことを意識してみようという堀江さんからのメッセージなのでしょう。

そして本文中に「努力」という言葉が一切出てこなかった事もとても印象的でした。堀江さん自身は努力しているという自覚が一切なく、 ただ「ハマっている」「没頭している」そんな感覚で日々の生活を送っていらっしゃるように思いました。

日頃から堀江さんの動画をチェックしたり、メルマガを購読されている方には目新しい情報がなかったかも知れませんが、 堀江さんの本を読むのが初めてだった人は自分の人生を変える何か、行動に移すキッカケなど、何かしらを得られたのではないでしょうか。

堀江さんの本は他にも色々ありますので、興味を持ってもらえたなら嬉しいですし、私も他の堀江さんの本も読んでみようと思えました。 それではまた次回の書籍レビューでお会いしましょう。 最後までご覧いただきまして誠にありがとうございました。